サンパウロ人文科学研究所
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研究者の足跡

コロニア文学への貢献─尾関興之助─
田中慎二
 ブラジル日本移民史料館の第3代館長・尾関興之助(1912─1994)が、コロニア文学振興に果した功績は大きく、人文研との関わりも人文研の前身である土曜会時代からのメンバーで活発な文筆活動を行っている。1950年代に土曜会で刊行していた同人雑誌『時代』を見ると、執筆者には錚々たる顔ぶれが揃っており、内容の充実さはさすがである。参考までに1953年11月に刊行された『時代』15号の目次を紹介してみよう。

ブラジルの日系人に関する最近の調査研究について……………………斎藤 広志                            
ブラジルにおける日本語の運命……………………………………………半田 知雄                            
戦後邦人社会の精神状況……………………………………………………アンドウ・ゼンパチ                             
伯国近代文学展望……………………………………………………………井関 譲治                            
ブラジル小史(二)…………………………………………………………アンドウ・ゼンパチ                      
 編集後記で増田恒河は―斎藤が書いた「日系人に関する研究について」、アンドウの筆になる「マカコ問題からみたコロニア的思惟」、半田が発表した「日本語の問題」、いずれもコロニアの生々しい問題と取り組んだ論文であり、井関の「ブラジルの近代文学」また、アンドウの「ブラジル史」ともにブラジル研究の好資料であって、本誌の面目躍如としている点は誇りとしてよかろう。―と記している。                           
                                                   
 このブラジル近代文学について執筆している井関譲治は、尾関のペンネームで、ペンネームの由来を『ブラジル近代文学と私』(亜熱帯・43号)のなかで「なぜ本名を使わなかったかというと、私としては本名は専ら生業に用いるものであって、趣味やなんぞには使うべきでないというように、その頃は考えていたからである」と述べている。                          
 青年時代からバウルーの聖州新報に“紫雲”というペンネームで投稿をはじめ、ブラジル時報や戦前の日伯毎日などに翻訳・評論・映画批評・ブラジル文学史と精力的に発表。翻訳には小瀬毅、文学史の紹介などでは井関譲治という三つのペンネームを使っている。                      
 主な翻訳(日・ポ両語)では、1962年にエジトーラ・クルトリックス社から出版された日本文学短編集のなかで、谷崎潤一郎の「刺青」の翻訳がオゼキ・コウノスケの実名で掲載され、1963年にはグラシリアーノ・ラーモスの原作を「ひからびた生活」という訳題で、12回にわたって小瀬毅のペンネームでコチア産業組合の機関誌『農業と協同』(宮尾進編集長)に連載された。                           
 また1960年代から70年代にかけて、パウリスタ新聞社の『パウリスタ文学賞』、上記の『農業と協同』文学賞、ブラジル日本文化協会の『コロニア文学賞』の選者をつとめるなど、コロニア文学の振興に尽した。なお映画に関しての造詣も深く、1970年代にはブラジル映倫の審査員に選ばれている。                                             
                                                    
 交友関係では、晩年になって「僕の文学や映画への開眼は、木村のヨッちゃんのおかげなんだ」と兄事していたパウリスタ新聞編集長だった木村義臣(土曜会同人)の思い出話しがよく出たものだが、その木村も尾関を親しみをこめてコーちゃんと呼んでいた。そして同じくコーちゃんと呼んでいた人に河合武夫がいる。                                  
 河合と尾関とは1925年6月に神戸港を出帆した“しかご丸”の同船で、当時12歳で半ズボン姿だった子供の尾関から見れば、単身ブラジルに渡航する19歳の河合は近寄り難い存在として映ったのではないだろうか…。土曜会や人文研での同じメンバーとしての付き合いがあったものの、そうした子供の時の印象が、河合にたいして終生抜けなかったのではないか…という印象を時たま受けたことがある。                                   
                                                      
 自活することを条件に、親元を離れて勉学のために出聖した尾関は、小林美登利の聖州義塾の寄宿舎に入り、総領事館のオフイスボーイをしながら夜学に通った。当時、同寄宿舎にはすでに河合、半田知雄両先輩がいて、後に連邦議員となる野村ジョウゴも寄宿していた。ちなみに河合がこの寄宿舎で、リンスから再出聖してきた生涯の盟友となる半田と知り合ったのは、1927年のことである。その頃からパイプを吹かしていた河合を「俺はどうも苦手だったよ」と後年、尾関は苦笑まじりに述懐している。                           
 その河合と斎藤広志との勧めで、尾関が新聞などに発表してきた評論をまとめて、人文研から刊行しようという話しが出たことがある。それが河合の発案だと知って、非常に喜んだ尾関は、史料館に通って古い新聞を調べ、かなり纏めたとは聞いていたが、一人での作業は容易なことではなく、体調を崩したこともあって実現しなかったことが惜しまれる。
                                                      
 1994年1月27日、81歳で他界した尾関の訃報を、京都で知った青年時代からの親友・古野菊生(土曜会同人)は、追悼文「残雪記」(日伯毎日新聞12・03・94)で尾関との深い交友に触れ、「どんなに永く会わなくても、その人がこの地上の何処かにいる、と、思うだけで心の安らぐ人がいるものである。興之助もそのひとりであった」と愛惜のことばを記している。 (敬称略)     

 写真:1962年頃、旧パスリスタ新聞社応接室で。左から武本由夫氏(歌人)、尾関興之助氏。 

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