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今から4年近く前になるが、人文研の脇坂勝則顧問から、移民史料館に「大武和三郎展示コーナー」を作り、大武さんの功績を顕彰したいという相談を受けた。脇坂さんは移民50年祭のときも、多くの日本移民が世話になった葡和・和葡辞典の著者、大武さんの顕彰を提案し新聞にも投稿したが、顧みられることがなかったという。
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それから50年が過ぎて、笠戸丸100周年も近いので、この話を再燃させたく、ついては大武さんの遺族と連絡をとりたいとのことだった。
大武さんは昭和12年(1937)に「葡和新辞典」を9年に亙る編纂の苦闘を経て、さらに私財1万円を投じて出版したが、当時ブラジル移民の数は減少の一途を辿り、昭和16年の開戦で長年の勤務先であったブラジル大使館も閉鎖され、失意のうちに昭和19年(1944)2月に亡くなった。
戦後、父親の遺志を継いで長男の信一さんが、「葡和新辞典」を昭和25年(1950)に、「和葡辞典」を翌年、復刻版として出版し、再開された戦後移民にとって、親子2代に亙っての多大な貢献には感謝にたえないものがある。
「大武信一」をインターネットで探し、同氏が東京大学工学部機械工学科昭和16年の卒業であることを突き止めた。偶然だが、私の12年先輩であり、直ちに機械科の事務局に問合わせ、ご遺族の現住所が判明した。移民史料館の名前で、出状したところ、2004年1月に信一さんの長男和夫さんから丁重な返事が届いた。同氏は東大とハーバード大で法律を学んだ日米両国の資格を有する弁護士である。
その手紙には、大武さんの死後、信一さんが大事をとって、父親の荷物をすべて疎開したが、残念なことに疎開先が空襲で貴重な資料は総て焼失したとのことだった。
脇坂さんは2004年訪日時、和夫さんと会う機会があり、その後も連絡が続いている。
史料館が、プレ笠戸丸の3人の來伯者、大武和三郎、隈部三郎、藤崎三郎助の特別展示会を開くので、大武さんの写真など展示に役立ちそうなものがあれば、送っていただきたいとお願いしたところ、和夫さん本人が、6月に來伯するとの連絡が入った。和夫さんは西林総領事と学生時代からの親友で、総領事在任中に祖父曾遊の地ブラジルを訪ねたいとのことである。
同時に今まで見落とされていた、貴重な資料も見つかり、急遽送られてきた。目下整理中だが、展示会に花を添えるものと期待している。
終わりに、大武和三郎さんの簡単な略歴を紹介しておく。大武さんについては、50年祭に際して出版された「物故先駆者列伝」の中の、桑原忠夫氏(元毎日新聞記者)の報告、また鈴木南樹氏や佐藤常蔵氏の本などにいろいろ発表されているが、インターネットなど使えない昔のことなので、正確さに欠ける点もあり、また筆者のペンが滑りすぎた個所もあるので、いずれ稿を改めて、新たな知見に基づいた事実を紹介する機会もあると思う。
大武さんは明治5年(1872)1月4日、神田駿河台で誕生。
小学校は浜松学校と忍岡小学校で学び、中学レベルは横浜の志善塾と思われるが、今のところ志善塾の詳しいことは不明である。
明治22年(1889)7月20日、ブラジル海軍の巡洋艦「アルミランテ・バローゾ」が世界一周の途中寄港した。艦長はクストディオ・デ・メーロ提督で、ブラジル皇帝の孫アウグスト・レオポルド殿下が海軍少尉として乗組んでいた。
大武さんは多分学校の友達と共に、英語の通訳を依頼されたのではないかと思われるが、アウグスト殿下に認められ、ブラジルへの留学に招待されたという。父知康氏ともども喜んでこれに応じ、8月4日横浜を出港した。
長崎、上海、香港、シンガポールを経て、バタビア(現在のジャカルタ)を出港したのが、1889年10月30日、スマトラ島のインド洋側を航海して、スマトラ島西端のアチン(現在のアチェ、近年地震と津波で有名になった)に入港したのが、11月30日だった。
この航海中に11月15日にブラジル本国では、帝政が崩壊し、共和制にかわった。皇帝ドン・ペドロ2世も17日にはポルトガルに向けて慌しくリオを離れた。
クストディオ提督が、本国の政変を知ったのは、アチェに滞在した1週間の間に、ブラジルの政変が掲載されたマレー半島ペナンで発行された新聞のニュースを、オランダ海軍の艦長から聞かされたのが第一報である。アチェからは本国と電信による連絡はとれない。
次の寄港地、セイロン島のコロンボで本国の海軍省と電信で、交信が出来る様になって、本国の状況が分かった。その結果、コロンボでアウグスト殿下は退艦した。
身元を引き受けてくれたアウグスト殿下が去って、大武少年は今後の運命に不安を感じただろうが、艦長をはじめ士官たちの好意で航海を続け、スエズ運河から地中海を抜け、翌年1890年7月29日無事航海を終えてリオに入港した。
ブラジルに入国した大武少年はクストディオ提督の紹介で海軍関係の学校に学び、2〜3年後に海軍兵学校の機関科に進んだものと思われる。これは今後の調査課題である。
クストディオ提督は任期半ばで辞任したデオドーロ・フォンセッカ初代大統領を引き継いだフロリアーノ・ペイショット第2代大統領の下で海軍大臣を務めたが、フロリアーノ大統領の独断的な政治手法を嫌って辞任していた。1893年9月6日グァナバラ湾内の艦隊に立て篭もり、叛旗を翻した。海軍兵学校もこれに合流、当然大武さんも反乱軍に加わった。しかし1894年3月14日反乱軍の降伏により、いわゆる「海軍の反乱」は終結した。クストディオ提督はポルトガルに亡命、大武さんも路頭に迷うことになる。
1984年(明治27)8月1日、日本が清国に対し宣戦布告したことを知り、大武さんは参戦のため、帆船に便乗してブラジルを出国、マゼラン海峡、南太平洋を経て日本に帰国した。しかし、1895年(明治28)4月17日、日清講和条約が調印されたが、大武さんの到着がそれ以後だったため、徴兵忌避の疑いをかけられ取調べを受けたという。
実は、1894年11月15日に就任したプルデンテ・デ・モラエス第3代大統領(正確には第2期大統領)は1895年1月1日に特赦令を発し、海軍少尉以下の反乱軍参加者を赦免した。もしも、大武さんがブラジルに留まっていて、この特赦を適用されれば、彼は海軍兵学校に復学して卒業し、海軍技術将校としての人生を送ることになったかも知れず、我々が「大武さんの辞書」を手にする機会は失われたのではなかろうか。
1895年(明治28)11月5日、パリで日伯修交・通商・航海条約が締結され、1897年(明治30)2月批准を経て発効、日伯両国は互に公使館を開設、同年9月東京にカルロス・リベイロ・リズボア(Carlos Ribeiro Lisboa)公使が着任した。
大武さんは大隈外相の推薦でブラジル公使館に採用され、1942年(昭和17)2月16日ブラジルが日本と国交断絶し、大使館が閉鎖されるまで勤務した。
この間、日本移民のブラジル渡航が増えるのに応え、その便宜を計るため1918年(大正7)最初の葡和辞典、1925年(大正14)和葡辞典、さらに1937年(昭和12年)には、70年経った今でもそれを超えるものが現われない、「葡和新辞典」を個人で編纂・刊行した。
大武さんは1944年(昭和19)2月23日死去。
戦後、移民の再開とともに、辞書の必要性が高まり、長男信一さん(故人)が、1950年(昭和25)に「葡和新辞典」を、翌年「和葡辞典」を復刻・出版した。
以上
読者の参考までに「大武和三郎 年表」を下記に添付する。
(?)は未確認事項。
大武和三郎 年表
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| 年月日 |
明治年 |
年齢年 |
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| 1872/01/04 |
5 |
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誕生 神田駿河台 |
| 1878/04/00 |
11 |
6 |
小学校入学 (浜松学校?) |
| 1883/06/21 |
16 |
11 |
浜松学校退校 東京へ移転 |
| 1884/04/19 |
17 |
12 |
忍岡小学校高等科第2級卒業 証 (小学校7年生?) |
| 1885/04/00 |
18 |
13 |
(小学校8年生卒業?) |
| 1885/04/00 |
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(志善塾 入学? 1年生?) |
| 1885/11/00 |
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志善塾 講義試験 甲種褒賞 |
| 1889/07/20 |
22 |
17 |
「アルミランテ・バローゾ」横浜入港 |
| 1889/08/04 |
|
|
同上 横浜出港 大武出国 |
| 1890/07/29 |
23 |
18 |
同上 リオに帰港 |
| 1892/01/00 |
25 |
20 |
(大武 海軍兵学校入校 機関科 1年?) |
| 1893/09/06 |
26 |
21 |
クストディオの主導で「海軍の反乱」始まる (大武2年?) |
| 1894/03/13 |
27 |
22 |
反乱軍の降伏により「海軍の反乱」終結 |
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クストディオはポルトガルに亡命 |
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大武は海軍兵学校から放校 |
| 1894/08/01 |
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日本が清国に宣戦布告 9.17黄海海戦 11.21旅順占領 |
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|
大武 日清戦争を知り、参戦のため帆船に乗りブラジル出国、 |
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マゼラン海峡、南太平洋、マニラを経て日本に帰国 |
| 1895/01/01 |
28 |
23 |
特赦令 海軍少尉以下が対象 (大武も含まれる?) |
| 1895/04/17 |
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|
日清講和条約調印 |
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|
大武 日清戦争終結後日本に到着 徴兵忌避の疑いを受ける |
| 1895/11/05 |
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日伯修交・通商・航海条約 締結 (パリにて) |
| 1897/02/00 |
30 |
25 |
日伯修交・通商・航海条約 批准を経て発効 |
|
|
|
日伯両国相互に公使館を開設 |
| 1897/08/00 |
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|
珍田捨巳公使 着任 |
| 1897/09/00 |
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|
Carlos Ribeiro Lisboa公使 着任 |
| 1897/09/00 |
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|
大武 ブラジル公使館に勤務 (1942 大使館閉鎖まで) |
| 1897/04/22 |
|
|
東京外語にスペイン語科 設置 |
| 1904/02/10 |
37 |
32 |
日露戦争 ロシアに宣戦布告 |
| 1905/09/05 |
38 |
33 |
日露講和条約 ポーツマスで調印 |
| 1908/06/18 |
41 |
36 |
第一回移民船笠戸丸 サントス入港 |
| 1916/00/00 |
大正 5 |
44 |
東京外語 ポルトガル語科 設置 |
| 1918/00/00 |
7 |
46 |
大武 「葡和辞典」 出版 |
| 1923/05/01 |
12 |
51 |
日本の公使館は大使館に昇格 |
| 1924/00/00 |
13 |
52 |
ブラジルの公使館は大使館に昇格 |
| 1925/00/00 |
14 |
53 |
大武 「和葡辞典」 出版 |
| 1937/00/00 |
昭和12 |
65 |
大武 「葡和新辞典」 出版 |
| 1940/00/00 |
15 |
68 |
村岡玄 日本で最初の「西和辞典」(大観堂書店) 出版 |
| 1941/12/08 |
16 |
69 |
太平洋戦争 勃発 |
| 1942/01/29 |
17 |
70 |
ブラジル 日本と国交断絶 |
| 1944/02/16 |
19 |
71 |
親友・青柳郁太郎 死去 |
| 1944/02/23 |
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71 |
大武和三郎 死去 |
| 1945/06/06 |
20 |
|
ブラジル 対日宣戦布告 |
| 1945/08/15 |
20 |
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終戦 日本降伏 |
| 1950/00/00 |
25 |
|
大武和三郎長男 大武信一 「葡和新辞典」 再刊 |
| 1951/00/00 |
26 |
|
大武信一 「和葡辞典」 再刊 |
| 1958/00/00 |
33 |
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高橋正武 「西和辞典」(白水社) 出版 |
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サンパウロ人文科学研究所
住所 サンパウロ市リベルダーデ区サンジョアキン街381番3階
(Rua São Joaquim381-3º Andar sala 38 CEP 01.508-001 São
Paulo-SP Brasil)
電話・FAX番号 55・11・3277・8616
E-mail:centro.nipo@terra.com.br
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(c) Centro de Estudos Nipo-Brasileiros
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