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矢崎節夫氏は、明治22年(1889)1月25日、信州諏訪市に生れた。小学校時代中村國穂と云う先生に学んだが、この先生は機会ある毎に児童へ海外事情を吹き込んだ。海外発展は小学教育からというのが中村氏の持論であつた。矢崎氏もこの人に感化され、海外発展という芽生えをした1人で明治40年(1907)、諏訪中学を卒えると、南米アルゼンチンの広野にあこがれ、渡航の準備も整つていたが、翌年笠戸丸がブラジル移民を乗せて神戸を出帆すると知り、急転ブラジル渡航を決した。青年時代の夢は、それが緑の平原であり果てしなき大海原である限り何処でもよいのである。こうした夢の主は、もちろん矢崎氏一人ではなく笠戸丸には、香山六郎、間崎三三一両氏はじめ3,4人の独身青年が乗つていた。 |
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着伯後、先ず食わねばならず、食うには働かねばならぬとあつて、矢崎氏は、明治41年(1908)8月、サンパウロ市のモッカ競馬場附近で、鞍谷氏と野菜や花作りをやつたり、後ビスケツト会社で1日2ミルの給料で働き、そのビスケツトのかけらで空腹を満たしたこともあつた。翌年、せっかく日本で思い立つたアルゼンチン行きが忘れられず、首都ブエノス・アイレスまで渡り、瀧波商店に勤めたが、金の成る木がある筈もなく、さらにウルグァイ国に移り、サン・ホセー町で言語の習得かたがた牧畜方面の研究をしてみたが、これも容易でないと解り、マヌエル・イリサル歯科医の助手をして1年ほど働いた。越えて明治43年(1910)、第2回移民船旅順丸が来伯するのを知り、日本人恋しさに、再びサンパウロ市へ舞い戻つた。当時リオ・デ・ジャネイロ港内サンタ・クルース島ラージ造船所に第1回移民の逃亡組が2,30名働いていたので、これの通訳として雇われ、後、佐久間重吉氏と共に、同州イグアスー村附近で、借地して米作をやつた。マラリヤでどうにもならず、半年で退散した。大正元年(1912)、リオ市に開業していた米人歯科医について、また1年程技工を習い、大胆にも同市で開業した。 |
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